成田街道の由来は「佐倉道」である。佐倉道は房総最大の佐倉藩や多古藩、小見川藩の北総の諸藩の参勤交代に利用された公用の道だったが、成田街道の隆盛にともない「成田道」「成田街道」と人々に呼ばれるようになっていったと云われる。
しかし、成田街道(佐倉道)という名称を冠した街道でありながら、目的地まで統一した管理下に置かれたわけではなく、新宿(にいじゅく)~八幡宿までが「幕府道中奉行」支配下、大和田宿・臼井宿・酒々井宿・寺台宿が「佐倉藩領」という奇妙な街道であった。
水戸街道から新宿(にいじゅく)で別れるルート以外に、日本橋から水路で江戸川河港の行徳(ぎょうとく)に上陸し、成田に向かうルートもあった。
行徳へ向かう船は行徳船と呼ばれ、もともとは塩を江戸へ運ぶためのものであったが、幕末の頃には成田山へ参詣する人々を乗せるようになった。
成田山への信仰は元禄の頃(1688年から1704年まで、江戸幕府将軍は徳川綱吉)から盛んになってくる。町民文化の華が咲き、太平の世を迎えたこの時代には町民に財力がつき、信仰と行楽を兼ねた旅行ブームが興った。
江戸から成田までは三泊四日と、最も手軽な旅程であったためか、幕末には、年間200万人が参詣に訪れていたそうだ。また、子供に恵まれなかった初代「市川団十郎」が、熱心に信仰を示したことなども、成田参詣がいっそう盛んになった理由の一つともいわれている。
子供に恵まれなかった人気役者市川団十郎が成田山を信仰し、その信仰により男子を得たことが、庶民の目を成田山にむけさせることになったのだろう。
成田道中では臼井宿の「臼井城跡」や佐倉の「佐倉城跡」を中心に歴史の街を歩きながら、江戸庶民になった気持ちで歩いてみた。
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成田街道 寄り道歩き旅

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